2005年10月14日

マンガレヴァでの公聴会、1966年の大気圏核実験の様子

(タヒチプレス:12oct2005)

「仏国核実験の影響」調査委員会開催の公聴会により、1966年7月2日・仏国による南太平洋で最初の大気圏核実験の時のあらましが、マンガレヴァの人々の生々しい証言により浮き彫りになってきました。1998年に取られた仏国の「大規模沈黙政策」で情報は完全にシャットアウトされ、核実験推進派だったフロス政権下においては全く見えてこない真相が、遂に見え出しました。当Webサイト "Te nunaa MA'OHI" "Hotu Painu" では、最近マンガレヴァの事をまとめている最中だったので、現実とシンクロして驚きました。この公聴会の証言や現地視察の模様などを交え、コンテンツを近日中にアップしたいと思います。

●マンガレヴァの証言

公聴会開催:調査委員会、委員長 Tea Hirshon氏
同席:
CRIIRAD:Commission de Recherche et d'Information Independantes sur la Radioactivite(放射能に関する情報および独立調査のための委員会)メンバー

この証言は仏軍の監視下で無く「自由に発言できた」とても貴重な声です。管理人も知った時は驚きましたが、実験の施行される二年前1964年にはパペエテには独裁警察がつくられていました。名前は単なる「研究局」でしたが・・・「住民は絶えず密告され、検閲は定期化されていた。」そうで「核実験についての発言」などできるはずも無い状態だったのです。タヒチ裏側では冷戦時の共産圏のような重苦しい空気が流れていたのでしょうか?

・最初の実験時(コード名:アルデバラン:1966年7月2日大気圏実験)は避難所(シェルター)も無かった。
・重要な仏軍高官が来た、歓迎の食事を沢山用意したのに実験が実施されると素早く飛行機で帰ってしまい、仕方なく食事はゲスト不在で食べた。
・爆発が起きた時は頭上でとても大きな轟音がした。
・難聴の子供が生まれた(実験後に出産した女性)
・魚が食べられなくなった、シガテラのせいもあるが核実験も関係しているのかも。
・軍からは(実験について)なにも知らされなかった
・実験の後、軍関係者は(マンガレヴァで採れた)野菜を買わず、パペエテから持ってきていた。
・家族が(理由は明かされず)しばしばハオへ送られた。(注:ハオには補給基地があります。)
パペエテに送れば良かった。
・初の実験後にシェルターが作られたが、もうボロボロで軍が取り壊してくれれば良かった。
・(当時14歳の女性)三日三晩シェルターに入っていた事がある。映画を見たり食事が振る舞われた。実験後シェルターの屋根を水で洗い流していた、その後家に帰った。

今まとめているコンテンツ内容に「完全に整合」する証言の数々に、憤りが増しました。これでは仏国はマンガレヴァの人々を実験動物扱いした事にならないでしょうか?
posted by Hopuhopu at 12:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 核実験
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